SPECIAL2015 of 喜多流能楽 燦ノ会



第7回 燦ノ会公演は、能の最高の名曲と言われている「井筒」。
メンバーは「井筒」に対し、「余白の大きい曲」だと口をそろえる。
余白が大きいだけに、その余白がただの余白のままだと、
観ているほうは気づいたら夢の中…なんてことになりかねない。
役者はその余白をどう描くのか。観客はその余白に何を見るのか。
「井筒」のあらすじを追いながら、話を聞いた。

(聞き手・文:浅野未華 写真:石田裕(公演写真)、佐藤多津子)


井筒の情景

「井筒」は『伊勢物語』の第23段『筒井筒』をベースに作られている。幼なじみの男女が大人になって結婚し、一時期夫は別の女のところにも通うが、最終的には妻のもとに返ってくる。ざっくりいうとそんなストーリーで、よくある話といえばよくある話。
男は在原業平、女は紀有常(きのありつね)の娘と言われており、能「井筒」は二人が暮らしていたとされる在原寺を舞台に展開する。

友枝真也(以下、真也) | 前半は古いお寺に枯れ井戸があり、そこにススキが生えていて月が照らしているという秋の雰囲気ですね。

大島輝久(以下、輝久) | ススキは放っておいたって生えてくるいわば雑草。それがあるってことは、そこが荒廃した土地で、誰も訪ねてこないような場所なんですね。最近、廃墟めぐりなんかが流行っているけど、ああいう所に行ったときに、そこに昔の人の生活があったんだと思うとすごくノスタルジックな気持ちになりますよね。その感覚を底辺に持って見てもらえるといいなと。

そんなうらぶれた寺に、ひとりの美しい女(シテ)が現れ、業平との思い出話を語る。この女が有常の娘の亡霊だ。

佐々木多門(以下、多門) | この女性は死後の世界でも業平を想い続け、待ち続けている。能はドロドロとした感情を抱えた主人公が出てくることが多いけど、一人の異性を思い続けた信念で亡霊が出てくるというのは珍しい形ですね。

輝久 | 「井筒」は男性を思い続ける一途な気持ちが非常に美しく表現されている。それが表面的な美しさだけでなく、世阿弥の仕掛けによって重層的な表現になっている。

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真也 | 演劇的、脚本的にも、時系列が逆行して描かれているところがすごい。

原作の『筒井筒』の話の展開とは逆に、女の話は業平に二股をかけられたところから始まり、過去の幼い頃の話へとさかのぼっていく。能の前半は、恋愛が成就した幸せな思い出のところで終わる。
多門 | 後半はもう、能だけの世界ですね。
真也 | ストーリーを追うだけなら後半はいらないんです。何が後半になっていくのか、序の舞になっていくのか。それに浸る時間が前半。

なるほど。ここで二人が恋を成就させた和歌に触れておきたい。謡の中でも出てくるので、鑑賞する方は事前に音読しておくと、耳に残って「井筒」の世界に入りやすいかも。

筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生ひにけらしな 妹見ざる間に
(井戸よりも低かった私の背もあなたに会わないうちにすっかり伸びて大人になりました)

くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき
(あなたと長さを比べていた私の髪は肩よりも伸びました。あなた以外の誰のために結い上げるでしょうか)

美しいラブレターの応酬である。直接的に好きだのなんだの言わない。それでいて会わずに過ごした長い時間、いかに相手を想っていたかがしのばれる。では後半へと話を続けよう。



ひたすら待つ女

女は業平の形見の装束をまとって現れる。愛しい人の衣服を身にまとう。その行為がすでに男の不在をまざまざと表しており、女の深い孤独が浮彫りになる。そして女は和歌を詠む。

徒(あだ)なりと 名にこそ立てれ桜花 年に稀なる人も待ちけり
(移り気だと有名な桜の花ですら、1年にまれにしか来ない人を待っている)

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多門 | あれだけ辛抱した女性が、形見をつけることで抑えていた情念があふれていくという場面。ここのテンションの運び方っていうのはあんまりほかの曲にないですね。

輝久 | 待っている思いが募りすぎて、ある種狂気みたいなものを美しさの中に内包してる。出てくるときのテンションがほかの曲と違うのは、そういう狂気が一瞬あふれるんだと思うんですよね。以前、友枝昭世先生の「井筒」を初めて見たとき、「徒なりと」のところをとても強く謡われたので、すごくびっくりしましたね。

一途であることは狂気にもつながる。今も昔も。しかも業平は有名なプレイボーイである。そりゃ苦労もするだろう。しかし女は待ち続ける。そんな井筒の女、どう思います?(無茶ぶり)

真也 | 男性にとっての究極の理想なんだと思いますよ。女性にとっては納得いかないかもしれないけど。

多門 | 待つということが運命として逆らえない、変えようがない人がいる。でもその中で結晶する美みたいなものがあるんじゃないかなと。ひたすら待つことがこの女性の美徳だったわけですよね。そこに結局業平も戻っていく。やっぱり理想像じゃないですか。

じっと待つ女は理想?(さらに突っ込む)

輝久 | うーん…、嫁は先に寝とるしな(ボソッ)。まあ、一夫多妻制が当たり前みたいな時代の話だから、今の恋愛感覚とは違うところはある。

真也 | 通い婚だからある意味ずっと男と女の関係だったんだよね。(じっと待つ女は)自分は…、ちょっとしんどいかなぁ。

多門 | ………。


閑話休題。そしてドラマはいよいよクライマックスへと向かう。



永遠性が残す余韻

業平の形見を身に着けて、女であるシテは「序の舞」と呼ばれる舞を舞う。舞っているのは女なのか、それとも業平なのか。

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多門 | 形見には業平の魂が乗り移っている。舞っているうちに自分なのか、業平なのか判然としなくなり、一体化するような喜びというか、一緒に抱き合っているような感覚があるんじゃないかと思います。

舞が終わると女は井戸の中をのぞき込む。井戸には水が満ちていて、その水面に映った姿を見て女は言う。「見ればなつかしや」。

輝久 | 出てきたときは「人待つ女ってわたくし言われまして」とちょっと客観的に自分のことを話していたのが、井戸をのぞき込んだ瞬間はもう自分自身だか業平だかわからない状態になってますよね。

真也 | そこが物語のピークなわけだけど、そのときに何を見るのか。のぞき込んで何かを見て、ちょっと我に返るわけだよね。

多門 | そう、ふっとした間がある。詞章に「しぼれる花の色無うて匂ひ」とあるけど、花がしぼんでいくように、(女性も)我に返ってだんだん静まってくる。そのまま業平の面影と一致して完結せずに、自分に戻り、離れていく。だから有常の娘は、能が終わった後も再び業平を待ち続けるんじゃないか、という余韻がありますよね。

輝久 | 僕のイメージでは、冒頭は白黒写真みたいな世界だったのが、井筒の女が出てくることによってセピア色みたいに色が少しずつついてきて、井戸に自分の姿を映した瞬間にオールカラーみたいになる。最後、夜が明けて夢が覚めていく間にまた白黒の世界に戻って終わる、という感じ。最後に白黒に戻るから、再び次のサイクルが始まっていくような、途方もない時間の重み、永遠性みたいなのが余韻として残る。「能は見て2日後くらいが一番面白い」と言った人がいるけど、見た人の中にそんな余韻が残せれば、舞台人として最高だろうなと思う。



大いなる余白

おおまかなストーリーと舞台の流れはなんとなくイメージしていただけただろうか。と、ここで今回シテを務める輝久さんが思わず本音を吐露。

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輝久 | 正直なところ、なぜ「井筒」が能の最高の名曲と言われているのか、よくわからないんですよ。ほかの本三番目物、例えば「定家」や「江口」、「野宮」とかに比べると、「井筒」が持っているテーマはわりとアタリが軽い。男女の関係、その恋愛に終始している。それがなぜそこまで名曲とされるのか、これはもうやってみないとわからないなと。

真也 | シテはほとんど動きがない中で「井筒」の世界を描いていかなくてはならない。お能って背景があるわけでも、効果音があるわけでも、照明があるわけでもない。人柄や雰囲気といったものを出すのは、謡、声、所作だけ。それだけで「井筒」という曲の世界を作るのは、ものすごく大変なことだと思う。

輝久 | 観るほうも大変ですよ。余白があまりにも大きい。シテが主導的にやっている部分は少なく見える。観客がイメージの中で埋めていかなきゃならない範囲が非常に多いんですよね。

真也 | だからいろんな見方ができるし、いろんな感情移入のしかた、投影のしかたがある。

多門 | 能の持っている根本的な力がものすごく要求されると思いますね。謡だったら息の深さをもっともっと取らないといけないような。

輝久 | 結局、表面に出てくるものは非常に少ないから、基礎能力が圧倒的な人がおさまっていないと曲として成り立たないんですよね。昔の名人は立っているだけでいいというようなところがあったりしたわけですけど、そういう力がないと本当は成り立たない曲なんだと思う。自分にそんな力が到底あるわけはないと思いながら、でもやる。これを越えないことには先に進めないんだという能楽師としての切迫した気持ちがある。もう、当たって砕けろですね。

やれることをやるのではなく、やれないかもしれないことをやる。挑戦とは常にそういうものだろうし、そこを越えてこそ見えてくる景色もあるのだろう。「井筒」の余白は、役者の力を映す鏡でもあり、私たち観客の心を映す鏡でもある。そこに何が映るのか。確かめに行くのも面白そうだ。

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